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★☆★ 書く力、書く参加!
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★          市民ライター通信
☆ 2009.7.20
---------------- http://f-ts.bb4u.ne.jp/~writer/  ★ 第70号★☆★
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■まいど おおきに!■
 いよいよ本格的な夏になりました。昨日7月19日は、土用の丑の日ということで、スーパーマーケットでは特設売り場で多くの人がウナギを購入されていました。自分の食べたいときに食べるのが一番おいしいと思うのですが。 

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【1】オバチャマは市民ライター(35)   
    赤ちゃんポスト開設から2年  ………………………… オバチャマ
【2】地球を見つめて〜なんちゃって(番外編)
    コガネムシ  …………………………………………… かざりえみこ
【3】古いパスポート  ……………………………………………… thayama
【4】自分史「大阪ベイエリア」(9) 大正区編 
    弁当屋 1   ……………………………………………… トミ〜さん
【5】チョットかがく(8)
    考古学のかがく ………………………………………………… OHE
【6】生活に役立つ下水道豆知識(6)最終回
    紙芝居を見に来てね! …………………………… マンホールマン
【7】福祉教育語りの会
    音風景  ………………………………………………… 鈴木 昭二
【8】からだを散歩すると(5)   ……………………………… 竹藪 耶桁
【9】編集後記

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☆                    ★彡☆彡★彡
★【1】オバチャマは市民ライター (35)       ☆★彡
☆                             ☆★☆★彡
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              ■ 赤ちゃんポスト開設から2年 ■

                                         オバチャマ

2007年5月10日熊本の慈恵病院が赤ちゃんポスト(こうのとりのゆりかご)を開設してから2年。賛成反対さまざまな意見が交錯する中、最初の預け入れが想定外の幼児 だったのは記憶に新しい。その後、あまりニュースになるようなこともなかったけれど、今、どうなっているのかしらね。

2年目には、25人が預けられていた。1年目は17人、2年間で42人。今年09年5月までに預けられた25人中、22人の母親の居住地が判明。母親の居住地は、熊本県内はゼロ、九州8人、関東8人、近畿3、中部3、母親の年齢層は、10代2人、20代14人、30代4人、40代2人
    (慈恵病院や児童相談所などの説得で母親が引き取ったのは3人)
いずれも虐待の痕跡なし。 (読売オンラインニュース )

オバチャマが驚いたのは、25人中、22人の母親の居住地がわかっていること。それも県内ゼロで、九州だけじゃなくて本土から来ていることね。安易な預け入れを助長するっていわれている赤ちゃんポストだけど、そう安易じゃなさそうよ。赤ちゃんを抱えて移動するって大変。海を越えてやっと辿り着いたって感じでしょ。全国にあれば、もっとたくさんの命が救われていたんだろうなあ。

ドイツでは全国に80か所設置されているそうなの。必要だからよね。東京や大阪、名古屋など大都市にも設置する意味はあるんじゃないかな。熊本では遠過ぎる。経済格差が広がり、孤立化が進み、隣が誰だか分からない生活。望まれない赤ちゃんの中絶、虐待、殺害も起こりやすい。豊島区の店舗兼マンションのごみ集積所で生後間もない女児が裸のままごみ袋に入れられて放置されていた事件なんか切ないよね。泣き声で助け出されて、いまどうしてるのかなあ。

赤ちゃんポストの本来の目的は「望まれない赤ちゃんを殺害と中絶から守ること」「幸せな人生を用意してあげること」慈恵病院の蓮田太二理事長は「誤解されやすいが、ポストはあくまで赤ちゃんの生命を守るための緊急避難。ポストに置いた後でも母親が名 乗り出て了解すれば、里親、養子縁組の判断に行くのも早い。赤ちゃんさえ無事なら母親 にも冷静に考える時間ができる」と言う。

今の子育ては孤立化し、母親を追い詰め虐待に走らせる。子供を虐待死させる主犯トップは、継父ではなく実母だというのが哀しいよね。家族関係や地域コミュニティが希薄になって、おばちゃんやおばあちゃん、おじいちゃんとの接点もほとんどない。児童相談所は予算が削られ職員は少なく、忙しすぎてひとりひとりに対応できない。本当に必要としているところには子育て支援は届かない。政治家は、もっときちんと現実を見て欲しい。

赤ちゃんポストの是非は、親としての大人のモラルと、赤ちゃんの命、幸福を別個に考えなければ駄目ね。育児放棄を助長するとかいうのは、親としての(あえて母としてのとは 言わない)覚悟とか責任とかの問題だけど、赤ちゃんにとって最も重要なことは、生まれることと幸せになること。果たして、ポストは赤ちゃんのためになるのかならないのか。そこだよね。そこをはずして、是非を論じても意味ないんじゃないかな。
養子縁組の希望もあって、新しい 親子関係を築けることも多い。だったら、全国に赤ちゃんポストが広がったらいいと思わない? 親も子も両方救える気がするんだけど。

赤ちゃんポストに赤ちゃんを預けたお母さん。良かった。最悪の方法をとらないで、赤ちゃんポストまで届けてくれて。また、赤ちゃんを育てられる環境になったら、迷わず届け出て下さいと、慈恵病院は待っているそうですよ。もちろん、一番待っているのは赤ちゃんでしょうけれどね。

開設から2年、オバチャマは「こうのとりのゆりかご」を応援します。
残念だけど、社会はますます「赤ちゃんポスト」を必要としていると思う。
                    

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■【2】 地球を見つめて〜なんちゃって(番外編) ☆彡
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                   ◆ コガネムシ ◆
                                         ざりえみこ
                          
幼いころに覚えた歌がある。「コガネムシは金持ちだ。金蔵(かねぐら)建てた、蔵建てた。子どもに水飴 買ってきた」子どもに水飴を買ってくれるなんて、コガネムシはきっといい虫に違いない。幼心に勝手にそう思いこんだ。それがずっと続いたために、コガネムシに私は長年だまされてしまった。しかも、コガネムシとは、カナブンのことらしい。これもまあ、ボンヤリしていてたしかめもせずにこの年になっていた。虫類とは、お友だちではないからだ。ウィキペディアで見ると、カナブンには「金蚊」というれっきとした漢字まであるではないか。コウチュウ目コガネムシ科ハナムグリ亜科に属するとある。お友だちではないから知らなかった。

我が家にはゼラニウムが数鉢あって、ずいぶん長い付き合いをしている。挿し木をしたり買い増ししたりで、ほとんど年中カラフルに花が咲いてくれるから、大好きな花のひとつだ。近年、なぜかこのゼラニウムにも害虫がつくようになった。できるだけ、いや、ほとんど市販の農薬を使わない主義でささやかなガーデニングをしているものだから、ナメクジでも青虫類でも、ひたすら見つけては死んで貰うことにしていたのだ。だが、私に知識がないばっかりに、カナブンたちは、まるまる目こぼしをして貰っていたのだ。

知り合いに相談を持ちかけたてみた。すると「ブイブイ(大阪ではブンブンのことをこう呼ぶ!?)は、悪い虫や。幼虫はネキリムシやで。見つけたら殺さなあかんで」と教えてくれた。カブトムシに似た形で、緑色の光沢を持ち、コロリと丸い形がかわいい、などとちょっとでも思うんじゃなかった。幼虫が根元をかじりまくって、大きなゼラニウムを倒すし、成虫が花も蕾も食べて、無残な姿にした。なんてことだ。なぜかこの夏は、あまりのカナブンの多さに驚いていた。

ゼラニウムは特有の臭いがあり、虫も付かない花だったのに。ああ、だまされた、恩を仇で返された。覚えていろよ、カナブン。それだけではない。アジサイの葉はじめ、他の花も今年はカナブン被害にあっている。見つけてつぶしたカナブンを放置すると、フェロモンが出て仲間が集まるのだという。ああ、ますます頭に来た。暑い中、カナブンを退治していた私は、知らなかったこととはいえ、カナブン寄せ集めをしていたのだ。長い人生こういうこともあるか…
…。

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■【3】 古いパスポート ☆彡
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                                           thayama

ぼくが初めて海外に出たのは1971年のことである。もう40年近く前のことになる。あと2ヶ月ほどで25歳になる24歳の5月12日のことだった。所持金は、現金で234ドルとトラベラーズチェックで700ドル。千ドルに満たないが、当時は1ドル=360円だったので、締めて336,240円。いまドルは100円を切っているが、当時は現在の3倍以上価値があったので、大体100万円ぐらい持ち出した計算になるだろう。

横浜から船でソ連(当時)のウラジオストックもしくはナホトカまで行った。この辺りは記憶が曖昧な上、ソ連のスタンプがロシア文字なので読めないのだ。おそらく3日ぐらいかかったと思う。そこからシベリア鉄道に乗り、バイカル湖などを見ながら、モスクワに着くまでに1週間程度かかった。ある人のブログによると、現在ウラジオストックからモスクワまでは6泊7日ということだから、昔も同じぐらいだったということである。この行程の手配を「日ソ・ツーリスト・ビューロー」という旅行代理店に頼んだが、それ以外の全行程で、ホテルやチケットの手配は全部自分でやったように記憶している。

そして、フィンランドのヘルシンキに着いたのが、おそらく5月25日だと思う。パスポートのスタンプが薄くてうまく読めないのだが、「25 V 1971」と印字されているので、Vはローマ数字の5だと思うから、ほぼ間違いないだろう。横浜からヘルシンキまで約2週間かかっている計算になる。帰国は、75年の2月6日である。5年間弱の長い旅だった。

ヘルシンキのあとはスウェーデンのストックホルムに6月30日に入り、9月23日まで90日間滞在が可能だったが、9月15日にはデンマークに出ている。たぶんヘルシンキに1ヶ月強、ストックホルムに3か月弱いて、デンマークに入ったようだ。その後、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランス、スペイン、イタリア、ギリシャ、トルコなどを、主にヒッチハイクで巡り、71年11月22日にイギリスに渡っている。

ロンドンに2年ほどいたあと、横浜から一緒に旅立った高校の同級生Hがスウェーデンのストックホルムでカナダへの移民申請をしてバンクーバーに住んでいたので、かの地へ赴き1年ほど住んだ。大阪と京都以外で長く住んだのはロンドンが約2年、バンクーバーが約1年、そして後に交換留学した米国オハイオ州のスプリングフィールドという小さな町に1年ほど滞在した。留学した時は、77年8月18日に出国し、78年8月24日に帰国している。

最初の約5年間の遊学時代のあと、帰国して小中学生向けの壁新聞を作っている大阪市内の会社に編集希望で就職したが、結局編集をしているのは東京本社で大阪支社は営業だけ、ということが分かり、10ヶ月程度で退職。関西外国語大学の3年に編入したのが、76年4月。翌77年の9月スタートのオハイオ州スプリングフィールドのウィッテンバーグ大学の前期授業に交換留学生として受講している。

このときぼくはすでに30歳で、今でもよく憶えているが、社会学の最初の授業のとき、女性講師が学生に自己紹介をさせた。みんなサークルになって、順番に自分の隣の人を次々紹介するというアイスブレーキングである。最初から3番目ぐらいはみんなの名前を覚えていても、5人を過ぎると、なかなか覚えられない。ぼくの番がきて名を名乗り、「I'm 30 years old.」と言ったら、ほとんどは新入生だったので、つまり18才とか19才だったので、よっぽど大人の学生だと思われ、「えっ、そうなん!!!」的な反応があったことは今でも忘れられない(笑)。

いま、ぼくの手元にパスポートが3冊ある。1冊目は遊学時代、2冊目は交換留学時代、そして3冊目は、1988年に韓国旅行をしたときの赤い表紙のものである。つまり、三冊の古いパスポートがあるのだが、それぞれの自分の写真を見ると驚愕する。最初のパスポートの写真は、黒縁メガネをかけ髯も生やさず、いたってサラリーマン的で、この写真を見せるとみんな笑う。ところが、後のパスポート写真はどちらも髯を生やし、どちらかというと胡散臭い業界人風になっている(苦笑)。

88年以降、ぼくは海外旅行をしていない。若いときにじゅうぶん旅はしたので、もうええやろ、という感じがある。長期間ヒッチハイクで旅をしていると、「どこでも一緒。人間はみんな同じ」と短絡してしまうのである。でも本当は、それぞれの場所で、それぞれの流儀で人間は生きているのだから、きちんとそれを見届けないといけない。なのに、あまりにも長い旅に倦んでしまうのだ。若いときの長旅が本当によかったのかどうか、古いパスポートを見ながら"煩悶"している今日この頃である。そういえば若いころはきれいな景色というものにあまり関心がなかったなあ。ただ人間の姿を追い求めて徘徊していた。可能ならもう一度、"絶景"をもとめる旅をしてもいいなかとも思う

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■【4】自分史「大阪ベイエリア」(9) 大正区編
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                  〜 弁当屋 1 〜
                                           トミ〜さん

昭和44年1月、中学校の紹介で入社した製版会社を退職。大手駅弁屋で袖を通した待望の白衣(割烹着)も脱ぎ捨て、友人が紹介してくれた鋼材屋の「寸法切り」も自分勝手な理由で辞めた。製版会社をなぜ辞めたのか後悔した。15歳から働き、自分の夢を持ち「何とか成功したい」と思う気持ちが先行した。今思えば、人生の大きな節目であった。「料理人の夢」を追いかけるのであれば、料理学校に通うことが最短の道であったかもしれないができなかった。私の給与はすべて家に入れた。たとえ3万円であっても家計を助けることしか考えなかった。着るものは学生服ですませ、好きなものも自分からは食べない、夜は学校、授業が終われば部活で走り、大正区の自宅まで歩いて帰る時代であった。

次に就職した会社も弁当屋の「大阪給食」であった。当時、大阪には「大阪給食」「水了軒」「一富士」が弁当屋の大手三社と言われていた。この会社は母親がむかし働いていたので名前ぐらいは知っていた。結局は高校卒業までの2年間この給食屋で働き、自分の人生で一番楽しかった思い出に残る会社になった。勤務時間は7時30分〜16時30分であるが、毎朝7時頃までには出勤していた。今も昔も朝の早い職業と言えば給食と清掃関係があげられる。朝の早いのは苦にならなかった。子どもの時に新聞配達や牛乳配達で鍛えている。大阪給食では料理のことをよく覚えた。調理場に「一流の料理人」はいないが、プロの職人はいた。

今はコンビニで弁当がすぐに買える。オフィス街では即席弁当屋が低価格で独自の弁当を販売している。給食会社も顧客獲得のため価格競争やサービス合戦に躍起になっている。当時も弁当の値段は安かった。はっきりとは覚えていないが、150円と200円の弁当を作っていた記憶がある。ただ覚えていることは、材料費は確実に定価の半分以下に抑えられていた。

私は難波神社近くの大阪給食サービス部に配属された。そこは出張給食用のおかずと弁当が作られる。職人は煮物や揚げ物、焼物、釜場(ご飯炊き)に配置され、分業で弁当や社員食堂メニューが完成される。私の仕事は決まっていた。まずは「盛り付け」である。前日までにきれいに洗われた、販売価格によって大きさや形が異なる弁当箱を調理台に並べる。注文数により一回で終わらない。千食以上の弁当を作っていたと思う。現在の弁当はおかずの種類が多くカロリー計算もされているが、当時も栄養士によりカロリー計算はされていたがおかずの種類は少なかった。朝の調理場はまるで戦場のようだ。市内一円に顧客を持ち、西淀川区や此花区の臨海部の事業所にまで弁当を届けるため時間との勝負である。

出来上がった煮物や揚げ物を丁寧に素早く盛り付ける。ご飯の段もでき、二段重ねの弁当が次々に完成され配達車に運ばれる。社員食堂に出張する「おばちゃん」もおかずと一緒に車に乗りこむ。たまに「おばちゃん」が休んで手が足らない時に社員食堂にも出向いた。店の近くの事業所には自転車で配達に行く。それでも時間があれば近くの事業所の社員食堂に応援に行く。出来上がった料理であるが「お客様」に提供する。毎日が楽しかった。弁当一つひとつを作る(創る)楽しさと、煮物や揚げ物、汁物、釜場など好奇心旺盛な者であれば、いくらでも勉強できる場であった。包丁などはまだ触らしてもらえないが活気のある楽しい職場であった。青年期の2年間だが、この時代がなければ今の自分は確実にない。大好きな街「大阪ベイエリア」。


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■【5】チョットかがく(8)         ☆彡
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                 ■ 考古学のかがく ■
                                            OHE

古代史に興味をもつ歴史学ファンは多い。発掘現場での説明会等のイベントはどこも盛況のようである。とりわけ日本国が成立した卑弥呼の時代については歴史学ファン以外にも興味を示すひとは多く、それに関連した情報はマスコミで大きく取り扱われる。考古学というと現場での発掘作業をイメージするが、発掘品の多くは最先端の科学技術を駆使した分析により謎が解明されている。このような分析機器による、たとえば年代の測定法や、出土された土器や木片のあるいは塗料などの成分分析の原理を理解すれば、歴史ウオッチは違った面白みを持って、あるいは一段深いところで楽しめるのではないだろうか。

奈良県桜井市にある女王卑弥呼の墓という説がある全長280メートルの前方後円墳「箸墓古墳」の周囲(内部は今のところ発掘できないので)で出土した土器の表面に付着した炭化物を"放射性炭素年代測定"と呼ばれる方法で分析し、その年代が西暦240〜260年のものとされた。発掘状況からこの土器は、古墳の完成直後に廃棄されたとみなされ、この古墳の築造はそれに近い時期と推定された。248年ごろとされる卑弥呼が死去した年代とほぼ合致するとの国立歴史民俗博物館の研究成果を各メディアが報道した。

植物や動物は有機物で構成されるが、その有機物の骨格をなす炭素は3つの質量が異なる同位体で成り立っている。放射性炭素年代測定は、この3つの炭素同位体の内、1兆分の1程度の比率で含まれる放射性同位体である炭素14の崩壊から年代を推定する手法である。学校では炭素の原子量は12と教えられるが、それ以外に13と14のものが存在する。炭素14は放射性同位体で、半減期は5715年である。半減期が5千年程度であればすでに地球上には存在しないはずであるが、この炭素14は成層圏において大気中の窒素と宇宙線に含まれる中性子との反応により常時生成されている。この生成と崩壊がバランスし、大気中の炭素14の量、そしてそれから出来る炭素14の炭酸ガス量は時代を超えて常に一定を保っている。

生物の炭素は植物では炭酸同化作用、動物では捕食、また動植物の分解を通して大気中の炭素と常時交換をしており、生きている間の生物の炭素12に対する炭素14の比率は大気と同じになる。しかし生物が死ぬと大気中の炭素との交換がなくなるので、その瞬間から生物体の炭素14の量が減りはじめる。当然炭素12は安定同位体で、量は変化しない。そしてたとえば2800 年経過すると炭素14は約半分に減少し、炭素14の炭素12に対する比率が半分にまで減少する。すなわち古い時代の試料ほど炭素14の比率は少なくなっている。

炭素14の炭素12に対する比率を測定すれば逆に年代を推定できる。炭素12および炭素14の絶対量の分析には原子や分子など物質の質量を測定する装置の一種である加速器質量分析計が用いられる。この年代推定法は大気中の炭素14の比率が常に一定であることを前提とするが、実際には大規模火山の噴火や化石燃料の使用など多くの原因によりその比率が変動することが分かっている。科学者はいろいろな手法でより正確に年代を推定できるように補正している。

一見、科学的な言葉が用いられていると、すぐに信じ込んでしまいそうになるが、その言葉の意味するところが分かれば、ネットやマスメディアの記載内容を自分なりにより良く理解し、さらなる考古学への興味が増してくると思われる。


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■【6】生活に役立つ下水道豆知識 (6)最終回 ☆★☆ 彡
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             ◆ 紙芝居を見に来てね! ◆
                                      マンホールマン

僕はマンホールマン。下水道啓発紙芝居「マンホールマン」の主人公です。今回で最終回です。

最後にみなさんに紹介したいことがあります。夏休み期間中の平日午後3時より、城東区中浜にある「中浜下水処理場」内公園せせらぎ中央付近で紙芝居「マンホールマン」が実演されます。紙芝居の内容は、マンホールマンが下水にはびこる悪者「怪獣アブラー」や「アワアワ」を退治する筋書きです。聞けば聞くほど下水道の勉強になり、環境問題解決の一助になります。マンホールマンは大阪にしか存在しません。そのほかにオリジナルの紙芝居「雨太郎の里帰り」「下水道昔話・太閤下水」などを実演します。紙芝居を一度見に来てくださいね。

最後にお願いです。下水道は人間が生活・生命を維持するために必要なライフラインの一つです。大雨が降れば浸水を防ぎ、家庭などから流される下水を「きれいな水」にして川へ戻しています。窒素やリンを取り除き、海などを富栄養化による水質汚濁から防ぎ、地球の水循環を守る役割を持っています。紙芝居を通じ子どもたちに環境問題に興味を持っていただき、家庭や地域でできることを題材にしています。油を流さない。マヨネーズやソース、カレーやグラタンなど、お皿に残った残滓はふき取ってごみとして捨ててください。流せば流すほど下水道の効果が低下し処理単価が高くなります。マンホールマンは24時間がんばっています。どこかでまた会うことを楽しみにしています。バイバイ。


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■【7】福祉教育語りの会 ☆彡

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《福祉教育語りの会とは》

障害者が、小・中学校及び高校などあらゆる場所で、受障の体験を話したり、どのようにして再出発したかを《語る》ことは、「子供たちに障害の理解と《生きる力》と《思いやる心》」を育てるきっかけになると考えています。社会にはいろいろな人がいて、それぞれの存在を認め合って生きていることを知るきっかけにしてほしいと願っています。
このような「思い」から「福祉教育語りの会」は設立されました。

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        ◆◆ 音風景 ◆◆

                          大阪市福祉教育語りの会 鈴木昭二

 私の利用している、阪急電車京都線でのこと。プラットホームに入ってきた電車を音で認識。いつまで経ってもドアの開いた音がしない。その内、電車は発車してしまって乗れなかった。乗降客もほとんどなく、立ち位置もドアからはずれていたせいもあったのか。今までこんな経験はなかった。家に帰ってから阪急電車に「なんでドアの開閉音がしないのか」と電話で尋ねた。答えは、「車内を静かにしてほしい」と利用者からの要望があり、それに答えたとのこと。目の見えている人にとっては、ドアの開閉音は「騒音」なのかも知れないが、私達視覚障害者にとっては、重要な「手がかり」なのである。阪急電車には「開閉時に電子音でもいいので音を鳴らしてほしい」と要望した。

 最近環境と燃費の良い、ハイブリッドカーが不景気にもかかわらず、よく売れているという。視覚障害者が多く参加しているメーリングリストで、このハイブリッドカーの話題になって大いに盛り上がっていた。発進時にモーターで動き、ある程度のスピードになると、エンジンで動く。モーターで動いている時は電気自動車と同じでほとんど音がしない。タイヤの走行音だけだ。これは、電車ドアの開閉音より命にかかわる、重大な問題だ。

 日本盲人会連合にも、自動車業界や国土交通省へ「音」で走行を知らせる方法を検討するよう要望している。将来電気自動車が主流になるまでに、なんらかの対策を考えていただきたいものである。


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■【8】からだを散歩すると (5) ☆彡
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                    ■ 頬 ■

                                  竹藪 耶桁

国会関係のニュースで、最近、おじさんたちの顔がテレビ画面に
大写しになる。頬がたるんだり、頬がそげ落ちたり。
いろいろだね。
そのなかで後ろ指を指されながらも、頬かむりを決め込む人がいる。
選挙の開票結果に、頬がゆるむ人、引きつる人、いっぱい出てくる。
当選祝いなんかで、大きな鯛が届き、頬が落ちそうになるのかな?
暑いから、鯛はやめた方がいいかな?
いや、腐っても鯛だよね。


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★【9】 編集後記                     ★☆★
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新しく冷蔵庫を買った。最小必要設置スペースとしては、本体から両横各0.5センチの余裕があればいいとのこと。家の置き場所は73センチなので、それならと68.5センチ幅のものを頼んだ。ところが配達の当日、配達の人に「キッチンの入り口70センチしかないですね。柱が歪んでいれば無理かもしれません」と言われて真っ青。置き場所の幅ばかりに気をとらわれていて、玄関から置き場所までの幅については一切考えていなかった。なんとか、無事収まったが、もっと様々な視点を持ってものを考える習慣つけなくてはと反省しきり(スー)


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